字余りの下書き

Twitterで書きたかったけど文字数が足りなくて下書きに保存するしかなかった、あくまでもそんなつぶやきです。

「なにもしたくない」の自己分析

2020年7月9日21時、大学院入試の出願書類に手をつけ始めた。カレンダーアプリの「院試関連書類やる」という予定は二日前に終わっていることになっていた。

何枚かある紙束からとりあえず一枚引っ張り出して、筆箱の下の方から消せない黒ペンを掘り起こす。自分のフルネームを手書きするのはいつぶりだろうか。

おそらく、最後に書いたのは前セメスターの期末試験のときだったと思う。あのときを最後に小学校から続けてきた、授業を受けて、試験を受けるというひとつの日常が終わった。終わった瞬間にこんなツイートをするくらいには、自分にとって大きな区切りだったようだ。

 あれから春休みに入り、ゲームをしたり、誰かが上げた動画をみたり、たまに院試の勉強をしたりしているうちに、新しい病気が流行って社会は大きく変わったが、自分の生活は特に変わらなかった。

新学期が始まってすぐに研究室配属が行われ、行くとしたらここかな、という研究室になんとか配属されることになった。何度かZoomで先生や先輩たちと顔を合わせたが、実際に研究室生活が始まったのは今月に入ってからという感覚だ。

結局、春休みが始まってからこれまでの間で自分に課せられた唯一の課題は院試の勉強をすることだった。じっくり勉強するという意味ではこれ以上ないような環境の中で、自分にはそれがうまくできなかった。机に座って教科書を開くだけでも、自炊をして満腹になった直後に皿洗いをするくらいのエネルギーが要るようになっていた。

 

なんとも言えない虚無感を感じながら、志望する専攻とか、住所などの個人情報とか、何回か同じことを書いていたが、目の前に現れた用紙の半分を占める大きな記入欄を前にして手が止まった。

その紙は、「志望理由書」という名前だった。これはここまで書いてきた内容と意味が違い、書くことに自由度がある。中学校あたりで、自分の意見や感想を求められたときにどのような内容を書けば差し障りないかということがわかっていたつもりだったが、自分の意志を求められると、なかなかさらりと言葉が浮かんでこない。

今月に入ってからだろうか、自分は今、「なにもしたくない」と思っている。「なにもしたくない」のに、すごくいろんなことをしなければならない大学院に行って耐えられるのだろうかと思う。何度考えてもダメな気がして、募集要項と提出書類の束を丸ごとゴミ箱に突っ込みたくなる。だからと言って今から就職するにしても就活は時代遅れもいいところで、どうせ就職したってしなければならないことが多いのには変わりない。

そもそも卒業ができるかもわからない。卒論だって半年かけてようやく完成するかどうかというものだから、まずここからダメな気がする。あとひと月で院試だというのに、勉強が間に合っていないというのに、行ってもついていけないところのために勉強する気にもなれなくて、さらに進捗が悪くなる。今まで院進か就職かをろくに吟味してこなかったのが悪いのだから、いっそ休学か留年でもして一回考え直した方がいいのではないか。

でもそれは家族が許してくれない。その余裕があるなら、今も虫が飛び回り廊下でゴキブリやカメムシにアリが集っている家賃5900円のゴミ屋敷で、バッテリーが1時間半しか持たなくなったMacBook Air(Early 2015)でこの文章を書くことはなかっただろう。社会のレールを走る新幹線に乗れたと家族は喜んでくれているが、実際はその屋根にしがみついているだけなのだ。

そもそも、志望理由として自分が考えていることをそのまま書いて恥ずかしくなければ、内容を捻り出すことに時間を使わなくて良い。思っていることを論理的に組み合わせるだけだ。だが、自分はこういう文章を求められたとき、ほぼ必ずそのお題に関して思っていることと、実際に書くことがかけ離れている。今回もそうだった。

自分は、本当の意味で大学院に行きたいわけではないと思っている。研究をしたいとか、もっと今やっている分野について知りたいとか、科学的な態度を身につけたいとか、そういう純粋な動機が自分の中に見当たらないからだ。それでも院試を受けることにしたのは、「良い企業に入れそうだから」で、「まだ社会に出たくないから」で、「周りの人間の大多数が行くから」だ。

「良い企業」というのは、給料が高くて、できれば働いていてしんどくないところくらいの感覚で言っている。実際にそんなところがあるのかは知らないし、給料がいくらあれば奨学金を返しながらでも不自由なく生活できるようになるのか考えたこともなければ、大学院に行ったからそういうところに入れるという保証もない。

「まだ社会に出たくない」のは、なにもしたくない中で就職してもついていけないだろうというのもあるし、少なくとも今までの学部生活を適当に過ごし、卒業できるだけの単位をなんとか回収しただけで、その内容を忘れてしまっていることを院試勉強で認識し、大学で得るべきようなものが自分の中になにも残っていないと感じているからだ。

「周りのみんなが行く」ならば、なにも考えなくてもそれなりのメリットはあるはずだと思うことができる。多数派から離れることへの不安感も小さくはない。

でも、こんなことを書いても最悪落とされるか、そうでなくても面接で将来設計の甘さやモチベーションの低さをチクリと指摘されるのがオチだ。流石に真っ赤な嘘を書くわけにはいかないので、自分が何かの拍子ですごく気分が乗ってとても気合が入ったときにはギリギリ信じていそうな、そんな理由を生み出そうとする。木曜日には志望理由書以外の書類は全て準備が整ったのに、この一枚のせいで週末を迎えてしまった。

考えるうちに面倒になってきて、気がついたらYouTubeを開いていた。思考のいらない娯楽は、現実逃避にもってこいだ。

最近、YouTubeのおすすめ動画に「収入アップ」やら「自己成長」やらを謳い、輝かしい実績をひっさげて熱意溢れるありがたい話を話す動画が増えてきた。タイトルやサムネによく釣られて見てしまうのは、今のままではいけないという漠然とした不安が常にあるからだろうか。

生協で参考書を買うついでにぼんやり自己啓発的な本を眺めているうちに気になって人生観を説くみたいな本も買ってみた。どうやら、人生はやりたいことを突き詰めていけば幸福度が上がり、大きなことを成し遂げられる可能性も高いようだ。やりたいことが見つかれば、少なくとも現状のどうにもならない不安感や虚無感を忘れて日々を過ごせるようになるかもしれない。これは今の、「なにもしたくない」という気持ちの反対側にあるような気がした。なんで、なにもしたくないんだろうか。

今を振り返ってみると、やりたいこと、気がついたら食事を忘れたり、寝る間を惜しんだりしながらやっているようなことがなにもないことに気づいた。今やっている数学や物理の勉強は世間一般からすればできている方かもしれないが、昔から苦手意識が強いし、何より楽しくない。緻密な議論に感動することもなければ、問題が解けたときの達成感もほぼない。公式の意味合いや、導出の式変形、それに伴う別の数学的知識などは、覚えていないと自分では考え出せないことが多く、たまにごちゃごちゃになってキメラみたいな公式が生まれる。いわゆる暗記科目と呼ばれているものなんかよりよっぽど記憶に苦労すると思っている。これからするであろう研究は、やったことがないのでわからない。もしかしたら楽しいと思えるかもしれないが、その基礎となる勉強が好きでないのだから、望み薄だろうと思う。

やりたいことが見つからないから、ひとまずやりたくないことを洗い出してみる。やりたいことではないことには、個人的な判断基準がある。それをしているときに、つい別のことをしてしまうかどうかだ。勉強していてわからないことがあってパソコンを開いたら、気がついたらTwitterYouTubeやよくわからんスマホゲームが目の前にあるような感じだ。これらの暇つぶし自体も、一つに飽きたら他のものを始めることの繰り返しだ。

自分は、この現実逃避癖とでもいうような傾向が非常に強いと思っている。今日は1日勉強するぞと意気込んで、終わってみれば3時間くらい勉強していれば良い方だ。呑気に日中を過ごし、日が落ちて急に焦り始めてなんとか2~3時間くらい勉強して息切れするような生活が続いている。「本題」に取り掛かるまでに、その目の前でうろうろしてしまう。これを読んでいる方には、入ったことがない店に入る前に店の前で立ち止まってしまう経験はあるだろうか、そんな感じだ。

このなかなか「本題」に踏み込まない傾向は、今自分が取り組んでいるあらゆる物事で発生している。院試の過去問を解く前に一通り教科書を読んでおこうとか(これは今みたいに時間が逼迫していなければむしろ良いことだとは思うが)、勉強をする前に自分の思考を書き出している今もそうだし、この文章にもそれは表れている。これを読んでいる方で、この文章のタイトルを覚えている方はもういないのではないだろうか。

今自分に与えられている現実は、院試に受かるための勉強をすることや、少し将来の話をすれば卒業研究や研究室で与えられる課題などがあり、しなければならない義務として降りかかってくる。自分はこれらを好き好んでやることはできないだろうと思う。そこから得られる楽しさが少しはあるかもしれないが、今はめんどくささの方が上回る。それによって何か分かることは楽しいかもしれないが、ずっと楽しいわけではないから、できることならなにもしないで良い方が嬉しい。楽しさの総和より苦しさの総和の方が大きいなら、なにもしない方が良いじゃないかと思ってしまう。別にこれは学問関係に限らず、あらゆることが対象になる。誰かが言っていたように、「楽しい人生じゃなくて楽しくなくて良いから波風立たない人生を送りたい」というわけだ。

現実逃避するようなことは大抵「めんどくさい」ことだと思う。勉強するのも面倒だし、起きるのもバイトに行くのもめんどくさいし、風呂に入るのも皿を洗うのもめんどくさい。しなければならないことは大体めんどくさい。

では、めんどくさくないことがやりたいことになるのだろうか。確かに、好きな時間に寝て起きて、好きなものを食べて、好きなときに好きなだけゲームをして、というような理想的な生活を最終的にはしたい。やりたいことであるのは間違いないが、今この瞬間から大学を辞めてこの生活を始めたら、遅くても1年後には餓死してしまうだろう。今自分が現実逃避的行動をしているとき、少しずつ精神的なしんどさが増大していく。こんなことをしていても院試に落ちて、仕方なく就職するにしてもこんな調子じゃうまくいかないぞ、と思い始めるからだ。この精神的なしんどさが限界に達したとき、仕方なくパソコンやスマホを閉じて勉強を始める。こうするとしんどさは徐々に減っていき、めんどくささが増える。そしてめんどくささがしんどさを超えたとき、また現実逃避に走る。めんどくさくなくても、しんどいことはやりたくないようだ。

めんどくささはしんどさを超えたときが限界になるが、しんどさは自分がもう耐えられないというところが限界になる。だから、現実逃避に走る時間の方が長くなってしまう。これもまたよくない。頭ではすべきこと、しないべきことの区別はついているし、苦労を先延ばししているだけであることもわかっているのに、行動がついてこない。今日見た動画で、「才能とはめんどくささを乗り越える能力のこと」という言葉が出てきて、これには非常に共感している。自分にはこの能力が著しく欠けていると前々から感じていて、これが自分の中で最も重大な問題だと思っている。これの解決策は、いろいろ調べたり実践したりしたが、うまくいかない。同じ状況にある方や、これを脱した方など、どのような考え方、行動をして対策しているかぜひ教えていただきたい。

 

昔は、ゲームさえできれば幸せだった。カードキングダムのデッキを模倣して友達を驚かせ、また別の友達とはクランを組んでチームスニーキングに励み、幼少期のリディアにメテオを覚えさせ、ウルガモスとスカイアローブリッジを往復した。この辺の話がわかる方とは、思い出話に花を咲かせたいところだ。
ゲームは、やりたいことの一つの答えだと思う。だが、今はゲームをするときは常に不安が頭の中にあり、熱中できない。こんなことしていてもどうにもならないだろうと思ってしまう。養ってもらっていることを当然だと思っていた時代はなにをしていたって将来も生き続けることに不安なんかなかったが、今は学びであったり、お金であったり、何かの価値が生まれないと不安が生まれてくる。実況をYouTubeにあげたり、攻略サイトを立ち上げたり、価値を生み出す方法はいくらでもあるが、それだけで生きていくのはあまり現実味がなく、そこまで極めてやりたいかというとそうでも無い。そもそも少なくとも今はその時間が生み出せない。自分のちょうどいい楽しさは、社会的には非常に低いところにあって、それじゃお腹は満たされない。もっと他の人も面白いと思うようなことが楽しいと思たら良かったのだろうが、これが悲しいところだ。

自分の根本にある考え方はめんどくさいことはやりたくないが、精神的にしんどいこともやりたくないということだと思う。先ほど挙げた理想的な生活をするには、今後一生なにがあっても困らないくらいの金銭的、精神的な余裕が必要になる。現状はそれがないから精神的にしんどくなってしまう。だから今は現実的にはやりたいことにはなれない。精神的なしんどさを回避するためには、その行為自体になんらかの価値がなければならない。たとえばお金がもらえたり、そうでなくても将来のためになる知識や技術が得られたりするようなことだ。できれば今降りかかっている義務につながっていればなお良いだろう。

めんどくさくないことが現実逃避的でなくなるには、現実の邪魔をしなければ良い。現実が片付いていれば、遊んだって自分へのご褒美とか、趣味の時間ということにできる。勉強中に割り込んでくるから現実逃避になるのであって、今日すべき勉強を決めて、それを終えてから好きなことをすれば良いという話だ。これも頭ではわかっているが、そこまで耐えられないのだ。昔はだらだらやっていても試験が近づいたら焦って勉強に集中できたのだが、最近はそれもなくなって危機感があっても緩やかに死に向かっていくのに逆らう気力が沸かない状態にある。この理由はわからない。

勉強はしたくないし、初めのうちはだらだら現実逃避しながらやっていくが、現実逃避もやがてしんどくなる。めんどくささとしんどさの限界値の違いにより現実逃避の時間ばかり増えていくから、院試に受かるのに必要な勉強量は確保できず、日に日に遅れを取っていき余裕がなくなっていく。昨日の現実逃避が今日の現実を膨らませ、現実が大きくなるほどめんどくささも増大し、より現実逃避が盛んになる。そして今、起きている時間の全て、あるいは睡眠時間を削ってでも勉強しなきゃ間に合わないぞというところまで来て、1日に行うことは現実の義務と、現実逃避だけになった。どちらもやりたくないのに。

そうして自分は今、「なにもしたくない」ということになってしまったようだ。現状の自分の生活は、やりたくない勉強と、それに伴う現実逃避のみで構成されている。そして、もし卒論や大学院での研究にもあまり魅力を感じられなかったら、その後就職してする仕事も嫌になったら、今後の人生はずっとこの状態で続いていくことになる。

好きな時に好きなことをやる理想的な生活を送るためには、少なくとも十分な資金がなければならない。宝くじでも当たらないかぎりは、お金を稼ぐにはなんらかの苦労がいる。現実的には、今勉強や研究を頑張ることが、将来的に理想的な生活を送る可能性を高める方法になるだろう。だが、こういう自分への投資的な行動をとるのが非常に苦手だ。院試に対する今の勉強でもそうだが、将来の苦労が大きくなることがわかっていても、今の苦労を最小化しようとしてしまう。

自分は消極的な負けず嫌いだと思っている。負けるのは精神的にしんどいが、負けないように努力するのはめんどくさい。結果として、できるだけ戦わないようにする。勝つのは嬉しいが、勝った状態だけ得られれば良い。自分が強くなるとか、何か能力がつくとか、そういうのはどうでもいいのだ。お風呂に入りたいわけではなくて、お風呂に入った後の状態になりたいのと同じ気持ちだ。だが、時間は連続しているので、どこかでめんどくささと戦わなければならない瞬間がくる。

人生も、さっさと奨学金を全部返して、残りの人生に困らないお金と時間と健康とが手に入ったら、少なくとも、仕事や研究みたいな何かを専門として極める段階に踏み入ることは二度と無くなると思う。こういう、仮に余裕があったとしてもやりたくないだろうと思うことをしないといけない状態に今はある。

 

そろそろ家族に養ってもらうのも終わりになる。自分の身の回りは自分で管理しなければならないし、生活に必要なお金は自分で稼がなければならない。生きるためには、何かしなくてはならない。そもそも、生きている時点で生きることをしているのだから、「なにもしたくない」の極限は、生きるのをやめたいということになるんだろうか。

なにもしないことは、そこにしかないのかもしれない。とはいえ、死ぬのはめんどくさいし、精神的にもしんどい。多分すごく痛いかすごく苦しいを乗り越えなきゃいけないし、家族や親しい人たちのことを考えても踏み切るには至らない。死んじゃえば楽だろうけど死ぬのにも苦労するからまだ生きている。将来の苦労を回避するための投資のできなさが、ここではいいように働いている。こんなことを考えていても、ご飯は食べるし、眠くなったら寝るし、たまには軽い筋トレだってする。

いくら、「なにもしたくない」からといって、本当になにもしていないと死んでしまうし、死ぬのはしんどいのでしたくない。死ぬしんどさより生きるめんどくささの方が小さい限り、いつかなにもしなくて良くなるまで生きるしかない。あとで余計な苦労をしなくていいように、もっと長い時間で苦労の総和が一番小さくなるように、今がしんどいのは仕方ないと思うことにした。

本当は今後の方向性を思う存分考えたいが、今しがみついている新幹線を止めることは出来ないし、無理やりにでも降りようものなら大きな痛みとともに息の根が止まってしまう。今の自分には飛び降りる勇気もないし、そうしておいて生き延びて踏ん張る気力も能力もない。だから、今はいつかわからない次の停車駅までは、振り落とされないようにしがみついているしかない。

この週末は勉強もろくにせずに、バイトの時間もうだうだと考え続けて、最終的に結論のところは変わらなかった。「なにもしたくない」という自分の感情をできるだけ丁寧に検討して、心のどこかにあるモヤモヤとした不安感の正体も、なんとなく掴めたような気がする。根本的な解決はできないだろうけど、中身がわかればある程度折り合いをつけていくことはできるのではないか。現実を直視しながらも、ある程度のしんどさには気が付かないようになろうと努力していこうと思う。

就職はもっとちゃんと吟味しなければいけないと反省しつつ、そのための時間が増えて、選択肢を増やすための能力が身につくなら、院進も決して悪いことだけではないのは確かだ。これから先、どう転んでもどこかでめんどくさくてしんどいのは間違いないから、それについていけるだけの精神を身に付けるのも、一つの義務なのだろう。

2020年7月13日21時、大学院入試の出願書類を全て揃えた。カレンダーアプリの「院試・筆記試験」という予定はもうおよそ1ヶ月後に控えている。8枚の厚めの紙と2つの封筒をファイルに収め、カバンに入れた。消せない黒ペンには、またしばらく筆箱でお休みしてもらうことになる。結局、志望理由はギリギリ嘘ではない当たり障りのないような内容でまとめ、先輩にも見ていただき特に問題はないとのことだった。

今日はもう疲れたから寝てしまいたいけど、1章だけ教科書を読んでからにしようと思う。もっとしんどい時に、日付が変わる前に寝られるように。